たまねぎの旅日記

現実から逃げるために旅するんじゃないよ、現実と向き合うために旅をするんだよ

たまねぎのひとりごと

ずっと考えてることを書く

私は子どもが欲しくない。欲しいと思っていた時期もあったけど、今はそうではない。なぜこのように変化したのだろうか?

最近、ある芸能人が「子どもを産むことに"前向きに"なった」というネット記事を書いていた。自分のことを受け入れることができたから、子どもを持とうと思えるようになったという。その後彼女は結婚を発表した。正直予想通りである。なぜなら"前向きに"という言葉を使っているからだ。このようなポジティブな言葉は、自分の精神が安定もしくは幸せな状態にある時に出てくるものだろう。きっと人生の幸福の絶頂にいるのだろうと容易に想像できた。

このネット記事を読んだとき、前半部分は共感できた。しかし後半の子どもを産みたいと思うようになった辺りから腑に落ちないというか違和感しかないというか。それは彼女が出した結論が私とは反対であり、そして彼女の選択こそが正であるように書いているからである。そう、"前向きに"が暗に子どもを産むことが正しく素晴らしい選択であるかのように感じさせるのだ。

「全ての女の幸福は子を産むことだ。そう思わない女は悪だ」
世界中でそのような考えは未だ根強いのではないか?(世が世なら、私は魔女狩りに遭い、生きたまま焼き殺されていたかもしれないな。)
そしてこの考えが、子どもを産まない人生を選んだ女性を、自身もしくはパートナーの問題で子が産めない女性をチクチクと襲う罪悪感に繋がってるのではないか。産まなきゃいけない世の中で自分は産まない(産めない)。誰も咎める権利は無いのに「子ども作ればいいのに」とか言ってくるのも、言われなくても何度もその考えを口にしたりSNSで書いたりするのも、子どもを産んだ人も産まない人も、そして男性も、「女は子どもを産むもの、それこそが最上級の幸せ」と刷り込まれてるからではないだろうか。

斯く言う私も刷り込まれていた人間である。いずれ結婚して子どもを産むのだろうなと漠然と思っていた。小さい頃は憧れてもいた。
ところが中学辺りから男性嫌いになり結婚は無理だと思った。しかし子どもが欲しいという気持ちはあった。
大学生になってからパートナーができた。最初は突き動かされるように彼の子どもが欲しいと思った。

なぜ子どもが欲しいと思ったのだろう。
今考えると、高校の頃の「子どもが欲しい」は一緒に生きていく人が欲しかったからだと思う。パートナーに求めることを子どもに求めようとしていたのである。この子の為に生きる、というような使命感が欲しい気持ちと男が嫌いでも子を産み育てることができることを証明したいという承認欲求が混ぜ合わさっていたのだろう。このままだととんだ毒親になったに違いない。
そして大学生の時は、パートナーとの関係がまだ不安定だったとき、もしくは不安定に感じた時に強く思ったのだ。つまり、「子はかすがい」ということだ。パートナーを繋ぎ止めるための道具にしようとしていたのだ。とんだ毒親である。


このような毒親候補だった私が今、子どもを欲しくないと思う理由は以下の通りである。


①やりたいことが多い

私は趣味が多い。語学学習や絵や小説といった創作、旅。他にもゲームや、最近は釣りやバイクにも興味がある。趣味というのはお金と時間がかかる。参考書、資料書にお金がかかるし旅なんて貧乏旅をしても万単位でかかる(貧乏旅だ、とか言って距離や日程を伸ばして結局万単位になってしまっている)。釣りやバイクは初期費用も大きいだろうし、維持費もかかってくる。仮に子どもがいると、世話に時間がかかることは想像できるし、大学まで出るとしたら2000万とかかかると聞く。趣味に回す時間とお金がなくなってしまうではないか。

そして趣味を楽しめなくなるだろう。語学学習や創作は集中できる空間が欲しいし、旅はアルバイトで子連れに応対してきた経験上、心から楽しめないだろうなと思った。私は幼児期から連れていってもらっていたが、親曰く大人しい性質だったからだそうだ。もちろん躾でなんとかなる部分もあるだろうが、旅なんていうはじめての場所に行くイベントで普段通りの落ち着きでいられる幼児などいるのだろうか?レストランでも食い散らかし座席を汚し、残飯大量生産していく子連れを見た。幼児だから仕方ないと思うし、だからこそ私は絶対連れていけないな、と思った。笑顔で対応するものの、本心は大迷惑である。何より片付ける時の料理と唾液が混ざったあの臭いが不快だ。嗅覚が敏感というのもあるかもしれないが、とにかく「生理的に無理」なのである。そして泣き声も嫌いである。単純に五月蝿い。

話は逸れたが、要は趣味の時間とそれに使う費用を吸いとられるのが嫌なのである。すでに楽しむスタイルを確立したのにそこに新たな人間を入れたくないのである。


②仕事がしたい

まだ働いていないから将来的に「仕事なんて出世なんてどうでもいいよ!」になるかもしれない。しかし今はちゃんと働きたい。父親が自身と同じ学歴をつけさせたいからという意向はあったものの、大学院修士まで進むのは自分で決めたことだ。そしてそれはこれからの人生、しっかり働き自分で自分を養うためでもある。パートナーとはいえ生殺与奪の権は与えたくない。というか自分の足で立てる者同士でないと対等な関係は築きづらいだろう。実家が太いとか資産がたくさんあるとか、資格持ちでいつでもどこでも働くことができるとか、そういう自分を守る後ろ楯がない限り専業主婦になるものではないと考えてる。20そこそこの小娘からしたらその後ろ楯のない専業主婦は奴隷にしか見えないのだよ。

なお、「私は飼い猫みたいな専業主婦だから」のようなtweetも見かけたことがあるが、猫だって生殺与奪の権は飼い主が握っているのではないか。溺愛しているから生かすのであって、愛せなくなったら捨てたり処分したに違いない。そんなご主人次第でどうとでもなるのがペットだ。私は嫌だね。



③男が嫌い

単純に男が嫌い。弟と父親も弟と父親として愛しているが、これが他人だったら多分嫌いだっただろう。
男嫌いの理由は様々あるが、そんな嫌いな属性の人間をわざわざ産みたくはない。十月十日も腹に入れていたくないし育てたくもない。しかもこの「はずれ」を引くのは1/2の確率だ。とんでもないギャンブルだとは思わないかね?
さらに、ギャンブルより酷いのはその結果が一生付きまとうことだ。男児を産んでしまったら私は虐待親になってしまうだろう。とんでもない奴だ。



④別にこの世を素晴らしいところだとか思わない

趣味というささやかな楽しみを見つけて生きている人間だ。両手を上げて「人生は素晴らしい!この世は素晴らしい!全てに感謝する!」なんて言えるおめでたい人間ではない。常に希死念慮がある。ふっとしたことで死にたくなるし、実際自殺しようとしたこともあるし、交通事故にあった時は「やったぜこのまま目を閉じれば死ねる!」と思った。結果は歯が一本折れただけだったけど。

そんな世界に最愛の子どもを連れてきたいと思う?私は思わない。

子どもたちはこの世に誕生する前に赤ちゃんの国みたいな、天国的なところにいると言う人がいるけれど、それならば楽園にいたほうが良くない???こんな苦しい世に生まれさせられるとかかぐや姫かよ。なんの罰だよ。赤ちゃんは罪を犯してないのにさ。



障がい者を産みたくない

優生思想だ!と言い批判するならご自由にどうぞ。そもそも子どもを産むつもりないので私がこう考えても優生思想でもなんでもないと思いますがね。

ただでさえも大変な子育てなのにそこにさらに障がいを持って産まれたら?もう大変では言い表せなくなるだろう。しかも自分自身がそうであるように、世間も「障がい者」への偏見と差別は根強い。あるきょうだい児さんの告白を見たことがあるが、もう心が痛くなる。その人はヤングケアラーとして酷使され、この世を憎んでいるとまで綴っている。

「健常者」でもしんどい世の中に、なぜ初っぱなから枷をつけた状態で世に送り出さなければならないのだ。そんなの絶対やだね。

優生思想だ、と怒ってくる奴は何人も「健常者」が享受している権利を全て得られる世の中にしてから怒ってくれよ。




⑥母体へのダメージが半端ない

脳は萎縮するし内臓押し上げられるしホルモンバランスめちゃくちゃだし最悪死ぬし。

絶対嫌なんですけど。男は出すだけなのになんの罰だよ。他の生き物と同じく「出したら死ぬ」くらいになれよ、と思ってしまいますね。




だいたいこんな理由が主にあげられる。同じぐらい真剣に子どもがいるメリットも考えているがパッと思い付かない。

老後の世話?いやいや、してもらおうなんて烏滸がましくないか?子どもの人生に干渉するな。

老後が寂しい?いやいや、子どもいても嫌われて絶縁されていたり病院のお見舞い来てくれなかったりするぞ?子どもは確かに自分から産まれ自分の遺伝子を半分持った人間だが「自分」ではない。「他人」だ。なぜ無条件で仲良くなれると思うのだろう。兄弟だってそうじゃん。同じ人から産まれて同じ人から遺伝子もらってるけど全然違うじゃないか。なぜ子どもには適用できないのか。



1人で生きていく覚悟はあったがパートナーと2人だとより楽しいことがわかった。私はその人と生きていきたいだけであって、子どもが欲しいから結婚するんじゃない。

私は1人でも幸せになれるタイプの人間なんですわ。